UFO事件は状況の深刻さを反映しているこの夏、大阪のテレビ局から続けて出演依頼があり、さまざまなUFO遭遇事件の調査に取り組んでいるところです。その詳細は放送後に報告できると思いますが、このところ書き進めている当ブログ・シリーズ「宇宙的変革期におけるUFOの介入」と連動するところが出てきていることを感じています。
これは一方の関西テレビで取り上げるテーマでは、何か大きな変動が近づいているために、目撃事例が発生しているらしいということを取り上げました。しかし、この分析に至る過程で、過去の重要な事件が巧妙に歪められ、隠蔽されている現実に、改めて気付かされます。
例えば、昨年末の超常特番で取り上げた「東亜航空UFO遭遇事件」です。
この事件は1965年(昭和40年)3月18日に瀬戸内海上空で、すれ違う二機の旅客機がUFOを目撃していました。
番組放送後、神戸近郊のABCゴルフクラブというゴルフ場からこの光体を見ていた人から、弊社ホームページの掲示板に書き込みがありましたが、場所からみて、UFOは大阪湾から広島まで飛んでいたことがうかがわれます。
私が取材したのは、大阪から広島に向かうコンベア240旅客機の副操縦士をしていた馬嶋哲(まじまさとる)さんでした。

事件当時、新聞や週刊誌で取材されていたのは、機長の稲葉義晴さんの方で、その体験は新田次郎の長編小説「夜光雲」のモデルにもなったほどでした。
一方、副操縦士の馬嶋さんは、目撃した機の操縦席にいながら、ほとんど脚光も浴びることなく、その体験の報告の場もなく、当時の報道資料や飛行記録などを保持したまま今日までこられたこともあり、昨年、テレビ局の取材を快く受けてもらえることになったわけです。
私が取材をすることになって、馬嶋さんがお持ちの資料類を読ませてもらった中で印象に残ったのは、生々しい「機長報告書(キャプテン・レポート)」と1959年4月5日付の「週刊文春」に記載されていた「日米の空飛ぶ円盤騒動」という記事でした。
東亜航空機UFO目撃事件直後のこの記事は、よく事件を総括しており、特に稲葉機長が受けた一つの屈辱的出来事が書かれていたからです。この記事からなぜパイロットたちは立場を失ったかがわかります。
これまでにUFO遭遇事件の当事者が、大々的にマスコミに注目された場合、ありうるはずのないものを「ある!」と主張し続けるこの難しさ、さらにそのほとんどの人は何らかの仕打ちを受け、それを恐れて黙ってしまうというのがいつものパターンであることは、残念ながら事実なのです。
巧妙なUFO遭遇当事者への心理的攻撃以下に文春の記事を要約してみましょう。
機長自身、マスコミの取材に対して、自分の体験は明確な信念と自信を持って証言し、それが国内の各媒体に流れて数日たち、やがて外電に乗って海外にも広まろうとしていたころのことです。
―――― 機長の自宅の電話が鳴った。
「ハロー」と耳なれない日本語交じりの男の声だった。
自分はニューヨーク・タイムス東京支局員だと言って名前を名乗り、「あなたの体験は大きな反響を呼んでおり、アメリカでも同様な事故があった。ついては米国防総省、連邦航空局、パロマ天文台など専門家からなる調査団が来日し、事情聴取することになった…」と伝えてきたという。
そこで東亜航空の首脳部も色めきたって調査団受け入れの準備を始める。副社長が記者クラブで事の仔細を正式発表するなどで、記者たちも色めき立ったが、来日すると言った日にはだれも来ず、そんな人物はニューヨーク・タイムス社にはいないことが判明。一挙に事件報道は終息してしまったのである。――――
このトラブル以降、事件関係者やマスコミだけでなく、一般の研究家も全く事件に真剣に取り組む意欲が消失し、二度と脚光を浴びることはありませんでした。そしてやがて忘れ去られてしまったのです。
このような情報コントロールは、目を光らせている亡国機関の専門家によって巧妙に仕掛けられたものに違いありません。事件報道の拡大を終息させるという目的で、機長自宅の電話を調べ、会社を動かし、マスコミをかく乱するなどのシナリオを組み立てるのはプロの仕業としかいえないのです。

馬嶋副操縦士も、この顛末に対し煮え切らない気持ちを抱えて長年過ごしてこられたことが、言葉の端々にうかがわれ、すでに亡くなっている稲葉機長の遭遇報告書を、退職時にもらいうけて保存しておられましたので、二人のパイロットの名誉のためにも、その全文をここに記載しておくことにします。
東亜航空コンベア204旅客機UFO遭遇事件の機長報告書 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
TOA AIRWAYS
CAPTAIN REPORT
TO:運行部長殿
DATE:40.3.19
STATION:広島空港
CAPTAIN:稲葉義晴
SUBJECT:飛行中異常物体発見に関する報告(其の一〜二)
3月18日87便 機長 稲葉、副操 馬嶋、客室 原、乗客28名
19:05、コース上天候・快晴一片の雲なし、視程30哩以上、満月(15.7)
3月18日、18時55分、大阪空港離陸、VFR広島に向け航行。姫路市南西15哩(韮澤注:マイル)家島群島上空、高度6,500呎(:フィート)、機種方向270度、計器速度200kt(:ノット) 天候状況上記の如く全くの快晴にして一片の雲もなく、山陽及び四国沿岸の群小都市の夜景が望見し中天に月齢15.7の満月をいただき、年に幾回もない絶好の夜間飛行日和にパイロットのみに与えられた満足感に包まれて飛行中、19時06分 進路に対して10時00分の方向に飛行機の着陸灯の光芒を発見、馬嶋操縦士に注意を促し、見張りを厳重にさせて、同一方位、高度にて飛行するも、益々接近をするので、タキシー・ライト(:両翼にある前照灯)を点滅して当機所在位置を知らせると同時に、回避運動をすべきだと判断し、乗客シートベルトをオンにして右旋回330度方向に飛行するも、左翼至近距離に雁行編隊をする蛍光灯のやうな光を発し、大きさは光芒に包まれて不明なるも、約10〜15米(:メートル)と判断される異常物体が見受けられました。
危険を感じ当該機長として原因不明の事故となっては困るので最悪状態に備えてVHF(:超短波)にて現在状況を送信する様に指示。最初は東亜大阪にコンタクトしたが受信不能。次に118.1MC(:メガサイクル)大阪タワーに送信、これも受信不能のため126.2MCにて高松タワーとコンタクトして日本語にて異常物体が接近、雁行飛行中、高度、方位、速度異常なしと通報しました。
其の間19時06分〜19時09分、やがて異常な光芒も消え去り、20〜30秒間位経過したとき、126.2MCにて突然「こちらはJA3231高松上空、方位085゜飛行中、3時00分の方向より異常な物体に追尾されております」と当機に通報されてきましたので、
我々の錯覚眩惑でなく想像をはるかに越えた常識的には考えられない飛行物体が宇宙に実在することをまざまざと発見しました。
吾々はその後も快晴中を順調に飛行を続けて19時56分、何事もなく無事に広島空港に着陸し、馬嶋操縦士と地所にて異常物体について検討をしましたが、奇怪千萬というより外に表現ができません。
大空には吾々の知識常識以外の何者かが存在するのを確信致しました。以上
CAPTAINS SIGNATURE 機長サイン
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異常物体とは何だったのかこのキャプテン・レポートから分かるように、東亜コンベア機のパイロットたちは最初、左前方から異常光体が接近したので、衝突を避けようと、ほとんど右一回転、回避旋回するとき、物体は120度も方向転換し、左翼ぎりぎりに接触されるほどの距離にピタリと付いて並行飛行します。そしてやがて消え去ります。この間約3分間でした。
私はコックピットの機長席から副操縦士席に座る馬嶋さんに当時の様子をたずねました。
右前方から接近してきた時の様子を機長は「正三角形で、ちょうどネプチューンのタキシー・ライトみたいで、大きさは三角形の頂点と底辺の間が15メートルくらい。光りは三角形の中心部から下方に向かって照射していた」と週刊読売に答えています。
馬嶋さんはとにかくギラギラしたものだったと言っていました。
ネプチューンは対潜水艦哨戒機で、海面を強烈な光で照らして捜索しますから、それほどの光だったわけです。物体が三角形というのではなく、光芒がそのように見えたということでしょう。ここで機長は危険を感じ右に舵を切ります。
馬嶋さんは回避旋回するとき一時的に物体を見失いますが、右旋回ですから機長席からはその間も左後方に過ぎ去る物体は見えていたと思われました。
このとき機長は「方向探知機に目をやると針が乱れて動き、機体がピッチングを始めた」と週刊読売に答えていますが、馬嶋さんは「方向探知機はOFFだったはずだし、私は機体の揺れは感じなかった」といいます。
操縦桿を握っていたのは機長で、馬嶋さんは状況を管制基地に無線連絡していたので、細かい揺れに気付かなかったのだと私は感じました。
ともかく、その時無線は連絡不能となり、方向探知機はでたらめに反応し、機体は揺れていたということになります。これはUFO接近時に起きるEM(電磁)効果であることは明らかです。
馬嶋さんは最後につぶやきました。「機長はそのとき“これがUFOというやつだな!”といっていましたね。私はその言葉が何なのかまったく分かりませんでした」
この事件の10年ほど前の1954年に、アメリカの参謀本部は陸海空全軍に対し、JANAP146という「UFO目撃報告指令」を発布しており、航空界に初めてUFOという呼び名が流れ、機長だけがそれを知っていたということでしょう。
事実、この東亜機UFO遭遇事件を報じた当時の新聞や雑誌の記事にはUFOという文字は一切出ていません。すべて「空飛ぶ円盤」となっています。
米軍のUFO報告指令が出た年というのは、私が小学校三年で初めてUFOを学校のグランドで目撃した年であり、史上最大のUFOウエーブが欧州で起きた年です。そして東亜航空機事件が起きる半年前に静岡県で、私にとって生涯で最大のUFO遭遇を体験したのは、偶然ではないでしょう。
地上からの目撃は神戸から広島にまで至る稲葉機長と馬嶋操縦士が出会ったUFOは、当時の新聞や雑誌の報道、そして最初に書いたように、弊社ホームページに書き込まれた目撃報告などから、神戸から広島に至る瀬戸内海を、ときには航空機を追尾するなどしてジグザグに飛びながら、東から西へと縦断飛行を行っていたことが分かります。
まず神戸のABCゴルフ場から瀬戸内海方向にまばゆいばかりの光を発しながら西に移動するのが目撃され、姫路から家島群島の間で東亜機に接近し、そのあと松島上空で東京航空のセスナ機パイパーアパッチA3231を追尾します。その二機間の距離は約50キロメートル程になり、キャプテン・レポートの無線通信傍受にあるように、時間差は最大30秒ですから、UFOの速度は時速7,200キロメートル以上で、マッハ6はあり、現在の航空機の最高速度を超えています。
そして岡山県西寺市からは四国山脈方向上空に光体が目撃され、広島の中国電力府中営業所の社員3名が光体を見たと報じられています。
以上のUFO遭遇事件はいまから47年も前のことですが、地球を取り巻く宇宙からの介入の歴史からみると、その目的に沿った一つの流れの中にあることは間違いありません。詳しくは「宇宙人はなぜ地球に来たのか」を参照してください。
今年の六月末に大阪湾に巨大なUFOが出現していたという報告が複数あり、それに関連し、今月二回にわたり関西テレビでその意味するところを発言しましたので、次回は地球大変動の予兆に関連した踏み込んだ内容に進めたいと思います。